海の武士道
海の武士道
最近「雪風yukikaze」という映画を見ました。1941年の真珠湾攻撃による日米開戦以来、ミッドウェイ海戦、ガダルカナル戦、ソロモン沖海戦、マリアナ沖海戦と、多くの厳しい戦いの中、どこでも多くの仲間たちを救い、必ず還って来た駆逐艦を描く作品です。必ず助かるので雪風は”幸運艦”と呼ばれるようになりましたが、厳しい戦いの中でも多くの人命救助を行い、人々を救っていく姿に感動します。特に現代の我々に呼びかけるラストシーンは素晴らしいです。
さて、そういう人道主義を発揮した軍人といえば、キューピッド本社のある高畠町出身の海軍軍人、工藤俊作がいます。
工藤俊作は山形県東置賜郡屋代村(現・高畠町大字竹森)で、農家の工藤七郎兵衛の次男として生まれ、山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を経て、1920年、海軍兵学校に入学しました。1923年、海軍兵学校を卒業。その後オーストラリア・ニュージーランドなどの南洋方面遠洋航海に出発し、軽巡洋艦「夕張」に配属されました。1927年、駆逐艦「椿」に転属、1929年、駆逐艦「旗風」の航海長となり、カムチャツカ方面の警備を担当します。
1937年に海軍少佐に昇進、1938年7月1日に駆逐艦「太刀風」艦長となりました。同年12月1日に艦長を交代し、1940年陸上勤務となり、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を務めます。同年11月1日に駆逐艦「雷」の艦長となり、そのまま太平洋戦争を迎えました。
1942年3月1日のスラバヤ沖海戦では友軍と共同してイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈するなどの戦果を挙げました。翌3月2日、航行中の「雷」は漂流者を発見します。彼らは前日の掃討戦で沈没した「エンカウンター」等の乗組員でしたが、艦長の工藤は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示しました。敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険を冒しながらも3時間に亘り行われた救護活動の結果、「雷」は乗組員に倍する422名を救助しました。工藤は救助した英士官に英語で「あなた方は非常に勇敢に戦った。今、あなた方は日本海軍の名誉ある賓客である。」とスピーチしたといいます。翌日、日本軍が接収してバンジャルマシンに停泊中のオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に捕虜を引き渡しました。
駆逐艦「雷」に救助された砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は英国の外交官として活躍しましたが、恩人の工藤の消息を探し続けていました。フォール卿は1987年にはアメリカ海軍の機関誌「プロシーディングス」の新年号に「武士道(Chivalry)」と題する工藤艦長を讃えた7ページにわたる投稿文を掲載した他、天皇訪問を控えてイギリスでの反日感情が高まりかけていた1998年にもタイムズ紙に「雷」の敵兵救助を紹介する投稿文を送って反日感情緩和を図りました]。フォール卿が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していましたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日しました。しかし滞在中にそれらを実現できませんでした。
その後「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、駐日イギリス大使館附海軍武官や護衛艦「いかづち」乗員らの付き添いのもと、2008年12月7日に66年の時間を経て埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。この時行われた記者会見で、フォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っています。
工藤による敵兵救助行為をたたえるべく、出身地の高畠町の有志らによって顕彰碑建立が計画され、2010年から浜田広介記念館前に設置されています。
自分が艦長を務める駆逐艦乗員の二倍の敵軍人を救出したのも驚異的ですが、恩を忘れず戦後に滞日したイギリス軍人も立派ですね。こんなすごい人が高畠町から出たことは、忘れないようにしたいものです。工藤俊介は「海の武士道」などといわれ、たたえられています。
